|
利根山 光人は太陽だった
突然の死を悼んで(読売新聞1994年4月20日号より)
利根山光人さんの葬列を送った後も、まだその死が信じ難いという気がする。少し体調を崩したけれども大丈夫、と聞いたのは昨年の秋ごろの話だった。不意打ちのように悲報は来た。
およそ死のイメージには遠い陽性の人、あふれる生命力の人だった。「いや、私は自分が太陽だと思ってんですよ」と冗談半分に言っていたが、告別式に集まった多くの人が、いかに彼のおかげで元気づけられたか、気持ちが明るくなったかを口々に語っていた。こんなことは珍しい。利根山光人はやはり太陽だったのだ。
この人を現代の美術における際立った存在にしたのは、出合い頭の衝突とでもいうほかないメキシコとの遭遇だろう。読売アンデパンダン展を活動の場とする前衛の一人だった利根山さんは、三十四歳のとき東京で見たメキシコ美術展に打ちのめされ、たちまち「パリがたそがれて見える」経験をする。
メキシコへ渡ってマヤ文明から現代のシケイロスに至るまでの造形に触れた。そこで描いた自分の絵がアルタミラの壁画の牛のようだと評されてヨーロッパの洞くつを訪ねた。
やがて日本の装飾古墳が視野に入ってくる。日本の祭りの形も気になってくる。メキシコでセルバンテスを読んでスペインを巡り始める。そうして「ドン・キホーテ」のシリーズが開始される・・・。
世界を股にかけつつ、見事に一貫して利根山光人の関心は人間の生命の力・土俗の声と、その表現の形に注がれていた。「テクノロジー万能の世の中に、絵を描くなんて本当にプリミテイブな手の行為ですよ。アルタミラの時代とどれだけ違うのか。何も違っちゃいない。だからこそ遠く忘れようとしている幼児を、人間性を、こだまのように呼び戻すことができる。芸術に進歩なんてありません」
すべて自分の肉体を通し行動した人の、それはゆずることのできない実感であったに違いない。利根山光人にとって美術は、いわば人間の本能、人間の実存に遭遇するたねの手段だった。常に若々しかったが、様式や理論の操作が作品の真の生命といかに無縁であるかを知っていたという点で、数少ない大人の作家だった。
描くこと、制作することが、そのまま画壇や現代美術壇での地位、影響力、市場価値に換算されてゆく現今の美術界にあって、利根山さんは平然と孤立し、他人の動向など意に介さぬ道を歩んだ。
代わりに打ち込んだのは、音楽家の奥さんとともに自宅で音楽美術研究所「アルテ・トネヤマ」を主宰することであり、アトリエを解放して1年おきに個展を開くことであり、聖徳学園(千葉県松戸市)の校舎や講堂など一切の建物に、壮大な計画による壁画を制作することだった。すべて二十年、三十年の長期におよんだ仕事だ。
「製作は密室の祈り」と言ったのは日本画家の村上華岳だった。それも一つの立場である。利根山さんは大人も子供も同列の仲間として接し、制作の場を開放し、多くの人の目に触れる建物に作品を描くことで、閉鎖的な世界に風穴をあけ作家は社会的存在であることを身をもって言い続けたのだともいえる。
諧謔の筆を駆使してこれも最後まで続けた「ドン・キホーテ」のシリーズは、この国にはまれな、空駆ける笑いと想像力の世界だった。やせのドン・キホーテと太っちょのサンチョ・パンサの取り合わせに、絵画的な面白さを感じたのが始まりだったという。あらゆる荒野を駆け巡るこの不死身のコンビは、現代文明を批判する作者の代言人として、尊大なもの、権威ぶったものを笑いのめして歩いた感がある。
太陽の男にふさわしく、葬儀の日は快晴だった。五百人をこえる会葬者はほぼ全員がその場に残り、出棺を見送った。美術を本当に面白くしてくれたのはこういう人だ。「ありがとう」の一言を手向けたいと思う。(芥川 喜好記者)
|